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雲ひとつない青く澄んだ空に、パステルヒンクの花弁がほどよく交わる季節。ペトラは晴れて高等学校を卒業し、大学生となった。この先四年間通学する大学は、都会にその佇まいを構えている。田舎で生まれ育ったペトラは、親元を離れ、今日からひとり暮しの幕を開ける。
「私、都会で一人暮らしする」
そうペトラが両親に言った時、両親はすぐに首を縦に振らなかった。しかし実家である田舎から都会の大学まで毎日通学できる距離ではなかった。そのことは両親も承知済みだった。勿論、ペトラが実家を出ることも想定内。しかし想定外だったのが都会でのひとり暮し。
田舎に住む十代、二十代の若者が、都会の世界に憧れを抱くことはしばしばある。だが、時には憧れだけではどうにもならないことがあるのも、また事実。夢破れ、肩を落とし田舎に帰ってくる者もいる。そんな世界に大事な一人娘が、まだ世を知らぬ娘が飛び込もうとしているのだ。親が心配するのは自然のことだ。それでもペトラの両親が送り出してくれたのは、娘の夢を応援したいからだ。
決して裕福な家庭ではない。それ故に都会住む娘に雀の涙ほどの仕送りしかできない。それでも応援したいのだ、親という人間は―――。
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「あの、荷物の運び入れ完了しました」間取りワンLKの南向きのアパート部屋。その小さなペランダに出て、都会を見下ろしていたところを、引越し業者の人に声をかけられたペトラ。
「あっはい。ありがとうございました」
ペトラはベランダ用サンダルを脱ぎ、部屋へ戻った。
引越し業者に「ここにサイン、お願いします」とバインダーに挟まれた一枚の紙とボールペンを差し出されたペトラ。指定された箇所にペトラがサインする。それを確認した引越し業者は、挨拶を残して足早に去っていった。
玄関先で引越し業者を見送った後、部屋を改めて見渡したペトラ。そこには山積みに置かれたダンボール箱。
朝一で田舎の実家を出発し、都会のこの部屋に到着したのは午後だった。
荷物を積んだ引越し業者のトラックとは別に公共交通機関を利用してここまで来たペトラ。昼食は実家を出発する時に母親が持たせてくれたお弁当を平らげていた。
ペトラは腰に手をあて、「それじゃやりますか」と独り言を言ってから、ダンボール箱の開封作業に取り掛かった。
荷造りの際、ダンボール箱に何が入っているかマジックペンで記したので、後半日やり過ごすのに必要なものだけを、的確に見つけ出せる。
とりあえず、今すぐに必要としない物が入っているダンボール箱を、邪魔にならないよう部屋の隅に移動させるペトラ。自分でも一様何が入ってるか分かっているが、間違えて鉛でも入れてしまったかと疑いたくなるほど、重いダンボール箱。自分に力がないのかそれとも、中身の食器類が重いのか。はたまた、ここに来るまでに自分が疲れてしまったのか。ペトラにはよく分からなかった。
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夢中になって部屋の片付けをしていたペトラ。気がつけば時は夕刻になっていた。「!うそ、もうこんな時間!?」
改めて時計を確認するペトラ。
引越し初日。家具家電は一通り揃っているが、冷蔵庫の中には何も入っていない。水一本すらない。
疲れた体にこれ以上鞭打つのは過酷。
今日はまだ初日だし、何かスーパーで買ってくるか。そう思ったペトラは早速、鞄をひったくり部屋を後にした。
都会の街に出てきたペトラはその人の多さに呆気にとられた。
すごい人の数―――。こんな人の数、田舎じゃぁ、お盆とかお正月の帰省ラッシュの時ぐらいしか目にしない。それに目の鼻の先にコンビニがあるなんて。田舎じゃぁ、駅前じゃない限り、どちらかが閉店するよ。
ペトラはその都会と田舎の違いがあまりにも大きすぎて、少し迷子になった気分で立ち尽くしていた。
「わぁっ!」
突然後ろからペトラの肩に誰かがぶつかってきた。少しよろけるもぶつかられた肩をさすりながら前を見るペトラ。ぶつかってきたのは若いサラリーマン。その若いサラリーマンは後ろ振り返ることもなければ、謝罪の言葉を言うのも惜しいかのように前だけを見て、足早に歩き去っていった。その光景は「時間」という見ないものに支配されているかのようだった。
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スマートフォンを利用して近くのスーパーマーケットを見つけたペトラ。そこでとりあえず今日の夕食と明日の朝食を購入する。幸い実家は農家でもある。仕事努めする傍ら、旬の野菜を作っている両親。今朝の採りたてをダンボール箱一杯に詰めて持たせてくれた。その為一週間程は野菜には困らない。他にも塩や砂糖などの調味料類も、すぐに自炊出来るようにと持たせてくれた。しかしその出番は明日までお預け。今日はスーパーマーケットの袋に収まってるお弁当を食そう。アパートに帰ってきたペトラは部屋の電気の明かりを点け、部屋に上がる。そこには以前としてあるダンボール箱の山。思わず溜息を吐くペトラ。
こんなんじゃぁ、楽しいキャンパスライフは楽しめないよね……。そう思ったペトラは再び溜息を吐く。
「……とりあえず、ご飯食べよ」
荷物を適当な場所に置き、キッチンの流し台で手を洗ったペトラは、早速少し早い夕食を済ませた。
夕食後の後片付けも済ませたペトラは、疲れた体を湯船に委ね、目を閉じた。そこに広がるのは静寂だけ。いつも遠くに聞こえていた家族の声もテレビの音も今はない。
「ひとり暮らしって結構寂しいものなんだ……」
ひとり暮しのメリットは自由。食事をする時間も入浴の時間も自分の都合次第で出来る。誰も指図しない。でもひとり暮しのデメリットは疲れていても全て自分で熟さないといけないこと。例え風邪を引いて寝込んでいても食事は自分で調理しないといけない。こんな時人は自分の事を心配してくれる家族や友人のありがたみを知る。
「ふぅー・・・・・・」
軽く溜息を吐いたペトラは、温まり過ぎた体を湯から上げ、バスタオルで身を包んだ。
部屋に戻って来たペトラはベッドにダイビングし、体を沈めそのまま眠りについた。
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一週間後。ペトラは晴れて大学生という名の社会人になった。ペトラが通学することになったT大学は、文系と理系が専門の大学だ。教授や准教授の中にはニュース番組のコメンテーターとして時折出演している教授や准教授もいる。そんな有名教授や准教授がいる大学でペトラは文系を勉強していく。
「ペトラ〜!」
声がした方に振り返ると、こちらに手を振りながら歩いてくるブロンド髪にエメラルドを連想させられる瞳の美女が見えた。
彼女はエミリー・クリスティー。ペトラとは中学生時代からの親友。彼女もペトラと同じ文系に進む。
「おはよう、ペトラ」
「エミリー。おはよう」
式典終了後、今日は初となる顔合わせを果たしたふたり。その場でお互いに入学式の感想を述べていると、このままランチでもという話の展開になった。
ランチを終えて、大学からの最寄駅でエミリーと別れたペトラは、電車の揺れに身を任せた。
帰宅後、ペトラは玄関にパンプスを脱ぎ散らかした。パンプスなどのヒールのある靴を日頃から履いてはいたが、今回は正装。堅苦しい場所で堅苦しい服に身を包んでいた疲れが、ペトラの体を襲う。
部屋に入るなり、すぐにレーディースからラクな部屋着に着替え、吸い込まれるようにベッドへダイビングした。
大学生になると言うことは、この先自分の行動一つ一つに責任が求められる。今までそいうことを意識していなかった訳ではないが、今まで以上に自分の行動には責任を持たなければという意識が芽生えた式典でもあった。
ペトラは深い溜息を吐き、春の暖かい陽気が差し込む窓から遠くにある空の彼方を見つめた。
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翌朝、いつものように目覚めたペトラは、寝間着のまま身支度を済ませる。朝食を自炊して、いただき終えたペトラは私服に袖を通し、誰もいない部屋に向かって「いってきます」と言い、部屋をあとにした。
アパートから大学へは、アパート前にあるバス停からバスで30分揺られ、アパートの最寄り駅から3つ先の駅で下車し、そこから徒歩で行く。
大学へと続く歩道は、その大学の学生と思しき学生で溢れている。その波に飲み込まれるようにしてあるき始めたところで、後ろから右方を叩かれた。
「おはよ!」
立ち止まり振り返ると、相変わらす眩しいくらいの美女、エミリーがそこにはいた。
「おはよ、エミリー」
エミリーはペトラの横に並んで歩き始めた。ペトラを少し遅れるようにしてエミリーの隣を歩き始めた。
「初日の朝一番から講義か〜・・・・・・」
「高校ときとかとそう、変わんないじゃん。一講義が九十分なだけで」
朝から愚痴をこぼすエミリーとは、正反対にペトラはいつも通りだ。
その後もエミリーと会話を楽しみながら歩いていると、いつの間にかキャンパス内に入っていた。
早速、一講義目を受講すべく、エミリーと指定される教室に入った。
「うわぁ〜・・・・・・殆ど、女子ばっか」
「あれ?ペトラ、この講義の先生の名前見てないの?」
「ちゃんと見たよ。えーっと・・・・・・確か、リヴァイ准教授だった、よね?」
「そう!そのリヴァイ准教授」
「その准教授がどうかしたの?」
「なんでもそのリヴァイ准教授は、かなり女子生徒から人気があるみたいだよ」
その言葉を聞いてペトラはこの状況を理解した。
ここにいる大半の女子生徒が講義目的で来ているのではなく、そのリヴァイ准教授を見る目的で来てる、と。
「もちろん、そのリヴァイ准教授の教え方も評判みたいだけど」
「そうなんだ」
「うん。でもこのリヴァイ准教授。聞くところによれば、メディアから出演以来がきても、全部断って」
「なんで?」
ペトラは素朴な疑問を投げてみた。
「さぁ?私も従姉の人から聞いたから、詳しくは分かんない」
エミリーは眉をひそめて、困ったような顔をした。
腕時計を見ると、あと二三分で講義が始まる時間に迫っていた。
ペトラとエミリーは、空いていた一番後ろの席に腰を下ろし、鞄から筆記用具にテキストと大学ノートを机の上に広げた。
するとさっきよ一段と教室内が騒がしくなった。その理由は考えるまでもなかった。リヴァイ准教授が教室に入室してきたのだ。
ひな壇の上という遠くの場所から見ているせいなのか、リヴァイ准教授がやけに小さく見えてしまう。
リヴァイ准教授は教室内のざわつきを気にもとめず、教壇の前まで歩いて来る。リヴァイ准教授が正面を向き、教室を見渡した。
その時、何故かペトラはリヴァイ准教授の顔を見て、懐かしい気分になった。
なに、この感覚?私、この人に会ったことがあるような気がする―――。
「兵長・・・・・・?」
ペトラは無意識の内にその言葉を呟いていた。
「え?」
エミリーはペトラの言葉に聞き返した。
「え?」
我に返ったようにペトラもエミリーに聞き返す。
「・・・・・・誰のこと、兵長って?」
「え?私、そんなこと言った?」
「うん、たった今。で、兵長って誰のこと?」
「さぁ?」
ペトラも分からず小首を傾げた。
しかし、確実にペトラの胸の内に広がってゆくやっと「再会」できたという思い。
―――兵長、兵長。・・・・・・リヴァイ、兵長―――。