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 玄関のドアを開け軽く深呼吸をすると、風が運んでくる塩の匂いが鼻をくすぐる。
 この海の見える町に住み始めて早1年が経った。エレンもリヴァイも仕事をしながら、この家でそれなりに楽しく、幸せに暮らしている。
 朝は決まって、紅茶にトーストが一枚。あと、付け合せのサラダで朝のテーブルを彩る。
「さすがリヴァイさん!やっぱり、リヴァイさんが作る朝ごはんの方がいいですね!」
 この家に住み始めた頃は、交代でやっていたが、「もういい!俺がやる」と言われてしまい、今ではほぼ、リヴァイがやっている。まさに主夫だ。
 しかし掃除と料理だけは毎日交代でやっている。けれど料理の腕前は圧倒的にリヴァイの方が上で、エレンなど足元にも及ばない。それでもリヴァイは文句のひとつも言わず食べる。しかしエレンはそれが悔しかった。リヴァイは文句も言わなければ、美味しいとも言わない。リヴァイの口から「うまい」という言葉をエレンは聞きたい。その一心でエレンは毎日こっそりと料理の練習を繰り返している。しかしなかなか上達しないのが、現実というものだ。
 エレンはリヴァイの行動を真似するように、テーブルを挟んで向かい合わせの椅子に腰を下ろし、紅茶に口をつける。
「いただきます」と合掌し、まだ熱が残るトーストを豪快に齧り付く。
 以前はテレビを見ながら、喋りながら食っていたが、「食うか、喋るかどっちかにしろ」とリヴァイに叱られたことがあった。元々食事中はほぼ喋らない人だったので、喋っていたのはエレン一人だった。それ以降喋るときは喋る、食うときは食うと躾され直された。
 食事を終え後片付けも済ませ、二人同時に家を出てリヴァイは港の市場へ、エレンは港近くの食堂屋へそれぞれの職場へと向かう。

 港街の小さな町なので、毎朝職場に向かう途中の顔ぶれも景色も同じ。でもそれこそがエレンは幸せだと思う。
 みんなこの町が好き。この町で生まれて、この町に看取られながら死んでいく。欲を言えばリヴァイの傍でリヴァイに看取られながら死を迎えたい。しかしきっとリヴァイはそんなこと許してくれないだろう。何よりもリヴァイの方が年上なのだから、必然的にエレンがリヴァイを看取ることになるかもしれない。そんな未来が遠くも近くもあることを考えていた。
 町のおばぁやおじぃたちにこんなこと話したらきっと「お前はまだ若いじゃろ」と怒られるから誰にも話していない。
 人は遅かられ早かれいずれ死ぬ。それもあっけなく。今まで精一杯生きてきたことをあざ笑うようにだ。それは二人もの人を看取ったエレンが、自分自身で学んだことだ。
 朝から憂鬱な考え事をしていたら、いつの間にか食堂屋の前に来ていた。エレン気持ちを切り替え、食堂の戸口に手をかけ勢いよく戸を開け放ち「おはようございます!」とここの店主で開店準備を始めていた親父さんに挨拶を投げかける。親父さんは作業の手を止めず顔だけをこちらに向けて「おう!今日も元気がいいなっ!」とエレンに負けないくらいの勢いと元気で挨拶を返してくれた。
 この店はエレンの学生の頃のバイト先だった。学生を卒業する際、就職先を探していたが、エレンのしたい仕事が見つからなかった。その事を親父さんに話したら「なら、ここで働けぇ!」とバイトから正規として格上げし、再度受け入れてくれた。
 学生卒業後、暮らしについて聞かれたので、エレンはありのままリヴァイと細々と生活していると話した。すると偶にではあるが、店に仕入れた魚介類が余った時、親父さんが手ぶらのエレンにそれを手に下げさせて、帰宅させてくれる。持ち帰った魚介類はその日のうちにリヴァイが見事な腕前を披露する。
「あら、やっぱりエレンね、」
 店舗兼自宅になっている奥の部屋から顔を出したのは、親父さん自慢の奥さんだ。
 奥さんは優しく微笑み、
「エレンの声とあなたの声。奥まで聞こえてましたよ。もう、二人共子どもなんだから、」
 と、苦笑した。
 エレンはともかく親父さんまで子ども扱いされたら怒るが、この親父さんは「あぁ、俺はいつまで経ってもガキ大将だよ」と拗ねる。でも奥さんは拗ねた大きな子どもに構う様子も見せず、開店準備に手を貸す。しかし親父さんは構ってほしいのかチラチラと奥さんの方を見てるし、多分奥さん自身も気づいている。でも敢えて放ったらかしにして奥さんはニコニコ楽しそうに笑っている。エレンはこの奥さんの行動がイマイチ理解出来ない。
 エレンは更衣室変わりになっている奥の部屋で着替えを済ませる。この二人に恩返しとは名ばかりにも汗を流し労働に励む。
 午後から急に空模様が怪しくなり始めやがて、天からの雫が地上を濡らし始めた。
「やぁねぇ〜。朝はあんなに晴れてたのに」
「そうですよね」
 突然の雨に気落ちする奥さんと会話しながらもエレンは仕事を続けた。
 その後も雨は降り続き、夕暮れ時に来るお客さんの中にも「急に降ってきやがって、困ったもんだ」と愚痴をこぼす人がちらほらといた。
 今朝晴れていた分、傘を持って出かけなかった人は大勢いるだろう。エレンもその一人だった。
 店閉店後、片付けをするエレン。その頃には既に雨が豪雨に変わっていた。視界が悪く、ほんの一メートル先くらいまでしか見ない。さらに付け加えて車を両者持っていない為、自力で歩いて帰るしかほかなかった。
 エレンは親父さんが貸してくれた傘一本をさし、ほぼ感覚だけを頼りに歩き慣れている道を歩き始めた。途中、通りかかった車に思いっきり、水しぶきをかけられる。既にずぶ濡れだったのが余計にずぶ濡れになって、エレンは思わず走り去る車を睨みつけていた。
 水分を含んで重くなった服と疲れで重くなった体を引きずりつつも、なんとか帰宅に成功。
 家の中は真っ暗で静寂に包まれていた様子からリヴァイはまだ帰宅していない様子だった。
 壁に手をついて手探りで電気をスイッチを探し、部屋の電気を点ける。
 光で露になった自分の体を見て、これはリヴァイが見たら卒倒するかもと思い、床を水浸しにしつつ風呂場に向かった。
 シャワーを浴びた後、リヴァイがまだ帰宅してないことに不安を覚え、リヴァイの携帯電話にコールをかける。しかし受話器の向こうから聞こえてきたのは留守番電話サービスの自動応答メッセージ。だが、リヴァイが携帯電話に出ないのは偶にあること。今度はリヴァイの職場に微かな希望を胸に電話を掛けてみる。
「う〜ん、やっぱりダメか・・・・・・」
 さすがに勤務時間外では誰もいないようで、コール音が虚しく受話器越しに響いてるだけだった。
 電話を切った後、急に胸に不安が募りはじめ、ある事が頭の中を過ぎった。
 今日みたいな急に大荒れになった日に漁師だった親父は海に出ていた。波は高くなり船がいつ転覆してもおかしくない状況だったに違いない。船に乗っていたのはエレンの親父だけでなく、他の漁師も同乗していた為、関係者は全員彼らの無事帰還を願った。しかし、その願いは覆され漁師どころか船さえも戻ってはこなかった。当時10歳だったエレンの脳にはトラウマとして焼き付き、以後忘れられない記憶になった。
 リヴァイに何かあったんじゃないかと不安と恐怖がエレンの心を支配する。気がつけば豪雨の中、傘もささず飛び出していた。
「リヴァイさーん!リヴァイさーん!、どこですかー?リヴァイさーん!!返事してくださいっ!リヴァイさーんっ!」

「・・・・・・ァイ、リヴァイさんっ!」
「!おい、どうした?」
 急に何かから目覚めたエレンは目をしばたたかせ、声のする方に頭を向けると心配そうにエレンの顔を見つめるリヴァイの顔があった。
「おい、大丈夫か?」
「えっ、あ、はい。・・・・・・だいじょ、ぶです」
「おい!クソ眼鏡!エレンが目ぇ覚ましたぞ」
「ホントかい!?」
 隣りの部屋にいたのかすぐにエレンのいる部屋に飛んできた。
「んー、熱は下がったみたいだねー」とエレンの額に手を当てて体温を計った。
「随分うなされてたら、心配してたんだよみんな、」
 エレンはさっきからハンジやリヴァイの言っていることが理解出来ず、口をポカーンと開けている。その様子を見たハンジが、
「あれ?覚えてないの?」
 と聞かれたのでエレンは率直に「はい、覚えてないです」と答えた。
 事情を汲み取ったハンジによれば、エレンは実験中に急に熱を出し倒れた。それからエレンは丸二日寝ていた。
「何か怖い夢でも見てたのかい?」
「え?」
 虚を衝かれて、情けない声を出してしまった。しかしハンジはそのまま続けた。
「さっき言ったでしょ、『かなりうなされてた』って」
「あ、はい・・・・・・」
「良かったら参考までに・・・・・・」
「おい、コイツはまだ病み上がりだぞ。話なら後にしろ」
「えー、今聞いとかないと忘れてしまうかもしれないじゃん」
 リヴァイが止めに入り、エレンはほっと胸をなでおろした。
 確かにハンジの言う通り夢を見ていた。いつもならすぐに忘れてしまう悪夢のような夢。でもさっきまで見ていた夢はいつものとは違う。内容はよく覚えていないけど、断言出来る。幸せな夢だったて。
 エレンはその夢の続きを追うように再び瞼を下ろした。

海の見える町で生まれたなら