***
高校生の頃から付き合っていた彼女とも、今年で8年目になる。二人共いまでは立派な社会人になった。俺は一時は仕事を減らしていたモデル活動を高校卒業をきっかけに再び専念し、彼女は大学卒業後、一般企業に就職した。
住まいは彼女が大学に進学すると同時に俺は実家を出て彼女と同棲をし、生計を立てていた。そんな生活も早5年が経過し、俺はそろそろ彼女との結婚を考えていた。
彼女にその話をする前に事務所に俺が結婚を考えている人がいるということを先に伝えておかなくてはいけなかった。アイドルほどモデルの恋愛事情は厳しくないが、事務所が把握するより先に週刊誌にでも書かれては、あとでお叱りを受けることくらいは分かる。
俺は事務所に話したその日の夜に俺の考えを伝えようとした。
しかし――。
「ねぇ、私たち・・・・・・。別れよう・・・・・・」
冷めた夕食がテーブルに並べて待っていた彼女の口から、軽い足取りで帰ってきた俺にそれは聞かされた。
別れるって、なんで?今朝までそんな雰囲気なんて、なかったのに・・・・・・。
「えっ・・・・・・。な、んで?」
別れる検討がつかず、俺は彼女に聞くが、彼女はその理由を言い出しづらいのか、言葉を探っているのか、俯いたまま顔を上げてくれない。
俺はとりあえず別れ話を切り出されるようなことを小さな脳みその中で探した。
「もしかして、俺が帰ってくることが遅いことが原因だったりする?」
彼女は反射的に首を横に振った。
「え、じゃなに?俺に原因があるんだよね?だったら俺は努力して直したり、改善したりするよっ」
そこまで言っても彼女は理由を教えてはくれなかったが、彼女は唇を強く噛み締めた後、静かに口を開いた。
「涼太が・・・・・・モデルだから・・・・・・」
「えっ・・・・・・どいうこと?」
「・・・・・・」
そこまで言って彼女は自室へと入っていった。
その日は彼女の言った俺の仕事が原因の意味がまったく分からず、気になるあまり、一睡もしなかった。
翌朝、その日も一日仕事があるため、いつもなら起きて、朝ごはんを作ってくれる彼女の姿はなく、自分で食パンを焼いて仕事へと出かけた。昨日の夜の話は気になるが帰ってきてからすればいいと安易に考えながら。
夜、家に帰ると部屋の中は妙に静かで、人の気配が感じられなかった。
リビングに入って部屋の灯りをつけると、テーブルの上に茶封筒とひとつ、寂しそうに置いてあった。中を見るといつも割り勘で支払っているアパートの家賃分のお金と部屋の合鍵が一本入っていた。
俺は封筒が手から落ちたことに気づかないまま彼女の部屋のドアを開け、電気をつけると、女の子らしいく白が基調として飾られていた部屋が殺風景になっていた。彼女だけじゃない。彼女も彼女がいた痕跡すら消えていた。
それから3日後。女の子らしい可愛い封筒の手紙が届いた。
拝啓、黄瀬涼太 様
突然、あなたにさよならも言わず勝手に出て行ってしまったことをお詫びします。
ですが今日この手紙を書いたのは、あの日の夜、私の口から言えなかったことを伝えたくて、筆をとりました。
私が『別れよう』と言ったのは確かにあなたが"モデル"だからです。
私はあなたがモデル活動をし始めた頃からのファンでもあり、好きな人で恋人でした。でも高校を卒業してあなたがモデル活動に再び専念し始めると、あなたはあっという間に人気モデルとして色んな仕事をもらい、テレビでも見かけるようになりました。そのことはファンとして恋人として素直に嬉しかったです。でもあなたが売れて、雑誌やテレビで見かける回数が多くなればなるほど、近くに感じていた存在が遠くに感じるようになってました。このことをあの日あなたに言っていたら、きっとあなたは「モデルを辞めて、一般企業とかに就職する」って言うでしょ?
それでも私の気持ちは変わらないんです。
例え、あなたが本当にモデルを辞めて、一般企業に就職しても、周りの女はあなたをほっとかないし、結婚して左手に指輪を光れせていたって、そんなこと気にしない女はいくらでもいる。けど、あなたは意中の人以外とは一線を越えようとはしない人だって、私は知ってるし、それくらいのこと我慢できる。でも私の中に積み重なっていく寂しさまでは、我慢できないの。それが『別れよう』と言った理由です。
最後にこれだけは、私の口から言いたかった。
私は"モデル 黄瀬涼太"のファンで、これからもあなたの活躍を応援していくし、あなたのファンです。
私は"黄瀬涼太"の恋人であなたのことを、愛していたし、今もこの先も愛しています。
だからこそ、さよなら。
あなたと過ごした8年間は楽しくて、幸せでした。
敬具
手紙の文面が所々滲んでいたのは、きっと彼女が涙を流しながら書いた証なのだろう。
俺は玄関で靴も脱がず、荷物を持って立ったまま、寂しく照らす灯りの下でその手紙を読んでいた。
***
彼女がアパートからいなくなって1年が経ったある日、俺は彼女と初めて来た秋の海岸にひとり来ていた。波が浜辺に押し寄せる音を聞く度、寄り添いながら波打ち際を裸足で歩いたことを思い出して、あの時と同じように裸足になって波打ち際を歩くが、軽かったはずの足取りは、今は重たく、すぐ立ち止まる。
遠い地平線を見ると、あの頃の何気ない楽しかった毎日が走馬灯のように頭の中を巡った。
「付き合おう」と言ったのは、高校2年生のまだ残暑が厳しかった頃、俺からだった。
彼女とは1年生の時から同じクラスで、最初は「おはよう」とだけ言う仲から始まって、次第に俺から彼女に話しかけるようになっていった。
学校帰りの寄り道に、休日に2人で買い物に何度も行った。でもどれも友だちと一緒に過ごすような感じで、デートらしい感じではなかった。
2人の初デートは高校2年生の時、バスケットボールのウィンターカップ戦が無事に終わった頃だった。
世間的にはクリスマスムード一色で、俺たちの初デートもクリスマスデートになる予定だった。だけど、部活動に専念するために減らしていたモデルの仕事が急に入ってしまった。仕事が入ってしまった以上は仕事を優先せざるおえない。例え先約があったとしてもだ。
既にクリスマスの予定をしていた彼女には深く頭を下げたのを今も覚えている。彼女は「仕方ないよ」と言ってくれていたけど、今思えばきっと俺に気を利かしてついた嘘だったのかもしれない。
その後、俺はクリスマスを仕事に費やした為、その埋め合わせをも兼ねて大晦日の夜、近くの神社までカウントダウンと初詣に行ったのが俺たちの初デートだった。
初詣を終えた後は、静かに眠る街を通り過ぎ、港町をウロウロと宛もなく歩き、街に光が差し込むとほぼ同時に俺たちは互いの唇を重ねていた。
彼女が去ってもう1年経つのに、俺は未だに事務所に結婚の話が白紙になったことを言えないままでいた。現実を受け入れていないわけではない。けど、言葉にできない。ただそれだけだ。
子どもが作ったのだろう。波打ち際に砂の山がどっしりとかまえている。だが、波が砂を少しずつさらい、砂の山が少しずつ、音をたてることなく崩れてゆく。その様子を見ていて俺は彼女との恋のようだと思った。崩れないと思っていたものが、何の前触れなくあっさりと崩れる。だからこそ後悔の念が強いのかもしれない。
もし神様が一つだけ俺の願いを聞いてくれるなら、俺は「もう一度やり直したい」とは言わない。ただ、俺たちが出会う前の時間に戻って、存在すら知らない、出会うことのない遠い街へ連れて行ってくれ。その街で俺は、嘘の恋をするから。
周りの空を淡い橙色に染めつつ、地平線へと吸い込まれていく太陽を、黄瀬は愛しいかった彼女を見るように静かに見送った。